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乾燥地帯で起きているのは、砂漠化や土壌の侵食であり、干ばつの頻発である。
高地では地滑りや洪水、熱帯林では土壌侵食や気候の乾燥化、そして沿岸湿地帯では海岸線の侵食、内陸部の塩害などだ。
その詳細は、以下の章で検証するが、ここではサヘル地方で何か進行しているのかを見てみたい。
今世紀に入って、アフリカ大陸はほぼ一〇年に一度の割で、干ばつに襲われてきた。
その中で、初めて国際社会の関心を集めたのは、一九六八~七三年の干ばつであった。
サハラ砂漠の南側に連なる乾燥地帯で、二五〇〇万人が被災、一〇万~二〇万人と推定される餓死者を出した。
同時期、エチオピアでも二〇万を超える人が飢え死にしていた。
そして、八二~八五年の最近の干ばつは、三五〇〇万人が餓死線上をさ迷い、三〇〇万人以上が死んだと推定されるほど悲惨なものになった。
いずれも、サヘル地方からエチオピアにかけて被害が集中した。
この飢餓の模様は、情報化社会の真っただ中で起こり、テレビや新聞によって世界中に報道されたこともあって、大きな関心を集め、多くの国際機関や研究者によって、干ばつの原因やこれだけ被害の広がった理由が模索されてきた。
以前までは、異常気象による雨不足が深刻な干ばつを招いたとされてきた。
だが、過去に周期的に干ばつが襲ってきているのにも関わらず、最近の干ばつほどの被害はなかった。
そのため変わってきたのは、気象だけではなく、干ばつを受け止めてきた自然や人間の側ではないか、とする議論が活発になってきた。
この干ばつの直後に、そのサヘル地方でも、もっとも深刻な被害を受けたスーダンのサハラ砂漠に近い村に住み込んだ。
何か変わってしまったか探るためである。
「サヘル」とは、アラビア語で「岸辺」を意味する。
文字通り、緑の岸辺である。
六月下旬にやってくる雨期は「緑の前線」を伴ってくる。
木々はいっせいに芽を吹き、草が萌え出す。
そして二月になり乾期が深まってくると、前線は再び南へ後退して元の殺伐とした半砂漠へと戻る。
人工衛星写真を季節を追って並べてみると、サハラ砂漠に向かって〈緑の波〉が寄せたり返したりしているのが見える。
スーダンの首都ハルツームから、国連の援助機や援助物資輸送用の4WDを乗り継いで、三日がかりで北東部、北ダルフール州の最奥に向かった。
サハラ砂漠までは百数十キロほどで、雨期の最盛期に〈緑の波〉がやっと届くあたりである。
五〇度を超える炎天の中を、砂に車輪を取られては立ち往生を繰り返しながら、息たえだえになって目的のブルーシ村にたどり着いた。
砂の大海原に吹き寄せられたゴミのように、二〇〇戸ほどのワラ小屋が肩を寄せ合っている小さな集落だった。
一九八二~八四年にかけて、この村も飢饉に直撃され、二五人が餓死、二一人が空腹のあまり有毒の木の実を食べて中毒死した。
餓死者の二〇人までが一〇歳以下の子供と六〇歳以上の老人だ。
死者は、畑も家畜も持だない、村の貧困層に集中していた。
こんな小さな砂漠の村でも、人間は自然とバランスをとって生活してきた。
だが、六〇年代後半になってからこの関係が崩れ出した。
六〇年代はじめのアフリカ大陸は順調な天候に恵まれ、ほとんどの国が食糧を自給自足していた。
次々と植民地の鎖を断ち切って独立、暗黒の大陸が希望の大陸となった。
この村も例外ではなかった。
順調な雨期とともに「緑の前線」も現在より一〇〇キロから二〇〇キロも北へ上がってきていた。
かつてこの一帯の土地は肥え、北ダルフール州の穀物倉とさえいわれていた。
人も家畜もこの乾燥地帯へと移り住んできた。
年三%を超える自然増に加えて、この社会増が人口を膨張させていった。
六〇年代に入ったころでも四〇〇人程度だったのが、七〇年前後には1000人を超え、飢饉の広がった八〇年代初めには、一五〇〇人を超えるまでになっていた。
家畜頭数の資料は乏しいが、北ダルフール州政府が行った、一九五六年と八三年の州全域の比較調査では、牛が二・八倍、ヤギが三・四倍、ヒツジが三・〇倍になっている。
ブルーシ村では、これを上回る増加をしたことは間違いない。
この辺りでは、人が一人増えると家畜が四~五頭増える計算だからだ。
自然と人間を結んできた絆は、アラビアゴムが採れるアカシアーセネガルの木たった。
高さが七~八メートルになり、大きく枝を張るサヘル地方特有の樹種である。
そしてスーダンは、世界のアラビアゴム需要の八割をまかなう最大の生産国だ。
アラビアゴムは日常生活の思わぬところまで深く入り込み、私たちの生活にとって不可欠のものになっている。
ジュース、アイスクリームなどには、成分を均一に保つ乳化香料。
粒状チョコレートやキャラメルには製品の形を整える添加物。
医薬品では薬の錠剤を固めたり、液状の薬品の成分の分離を防ぐ安定剤などに使われる。
日本は、そのアラビアゴムの世界最大の輸入国である。
アカシアーセネガルの樹皮に斧で傷をつけると、二、三週間後に松ヤニのような樹脂がわき出してくる。
それを、こそぎ取るのだ。
ゴムを採るのは、すべて天然の木からだ。
実が落ちて自然に木が生えてくる。
数年でゴムが採れるまでに育つ。
細かな枯れ枝が周りに落ちて地面を被い、家畜が入れなくなるのでよく草が茂った。
一〇年ほど採ると樹脂が出なくなり、切り倒して薪や炭にして後を焼き払って畑にした。
マメ科の木なので土を肥やし、作物がよく育った。
四~六年耕すと、地力が落ちてくるので、放置しておくと再びゴムの木が育ってきた。
このように、ゴムの木、薪炭材、火入れ、畑几、休耕几、ゴムの木、という生態学的にみても完璧の輪作が長いこと続いてきた。
村人には、かなりの現金収入をもたらしていた。
六〇年代の末ごろまで、村の周辺だけで高さ五メートル以上の木が数千本はあったという。
だが、私か訪ねた八六年には、村人とともにいくら探しても二〇本ほどしか見つからなかった。
このスーダンの経済を支えてきたアラビアゴムの木の壊滅こそ、この一帯の自然の歯車が狂い出した象徴的な出来事なのである。
この一帯のように、正常でも雨量が三〇〇ミリもないところでは、土中の水分と養分を回復させるために、三~四年耕作を続けると、四~八年ほど畑を休ませる。
長年培われた土を守る知恵である。
とくに、アラビアゴムの本を組み込んだ輪作では、ゴムの木の生長とその採集期間を合わせると、二〇年も休耕することになる。
人口増は、まず穀物の需要増となってはね返ってきた。
当時一人家族が増えると、養うのに最低一フェダン(〇・四二ヘクタール)の畑が余計に必要とされた。
人々は知らず知らずのうちに、畑を増やしていった。
といっても、可耕地には限度があり、村から畑までの距離も一〇キ口ほどが通える限界だ。
手っ取り早い増産手段として、休耕期間が短縮されていった。
休耕期間の短縮は必然的に、アラビアゴムの林の開墾となった。
折り悪く、アラビアゴムの価格が低迷しているときでもあった。
人口の増加は薪の消費量を増やし、村民は畑も広がるし、薪がとれるし、と歓迎した節さえある。
その一方で、家畜も増えていく。
乱伐で本が少なくなった上、家畜を阻んでいた枯れ枝の堆積が、畑中家の囲い用に持ち去られて、家畜が林内を自由に出入りできるようになった。
ヤギやヒツジは、ゴムの木の実生を食い尽くしていった。
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